河口湖でのレコーディングを終えて・・・・福島順子

 桜の花が雨に打たれて花びらを散らしていた。97年のある春の日の事。
肺に腫瘍が見つかり、いくつもの検査を終えた私に、先生は「週明けに入院して、一週間後に手術しましょう。歌をお仕事にしているそうで残念ですが、今と同じように歌う事は困難になると思います、でも命の方が大事でしょ!」と95%肺がんであろうと告げた。子供の時から歌と共に生きてきたのに、歌えなくなる・・・。命が危ない事より歌えなくなる事の方がショックだった。自分の歌を残しておきたい!帰り道、友達のピアニストに泣きながら電話をかけた。入院の二日前にスタジオを借りて、2時間歌い直しもせず,歌えるだけ録音しそのテープを大事に持って入院した。覚悟した私に、神様は微笑んでくれた。良性だった。肺活量はやや減ったものの再び歌えた。この時から“自分の生きた証”として納得のゆく自分の歌をCDに残したい!とずっと思って来た。


2000年になり、いよいよシャンソンのCDを作ろうと、私の師堀内環先生と誰にアレンジと演奏をお願いしようかと、シャンソンのCDやコンサートを聞きあさった結果、“音の美しさで高橋晴美さんしかいないネ!”と意見が一致。以前友人の紹介で面識はあったので電話でお願いした。「いいものしか作りたくないから、時間を区切られるとできないので考えさせてください」という返事だった。他の人は考えられなかったのでひたすら待った。大晦日になっても返事がもらえなかったので、年賀状に首を長くしてお返事待ってます、と首ながの漫画を書いた。お正月の終り、ろくろっ首が効いたのか晴美さんからお会いしましょうと電話がかかり、何年かかってもいいですからという事でやっと承諾してもらった。嬉しかった。晴美さんの歌も歌いたかったので、レッスンに通うようになった。歌えば歌うほど晴美さんの歌が好きになっていった。
 そして今年の10月河口湖スタジオでのレコーディングに漕ぎ着けた。シャンソンではなく晴美さんの作品のCDを作る事にした。1番好きだから!(堀内先生はずっこけた!)両親の墓参りも済ませ河口湖に向かった。晴美さん、佐古さん、エンジニアの黒田さん、波多野さんと5人での合宿が始まった。スタジオでは毎日1時から途中夕飯は取るものの10時まで歌っては聞きの繰り返し、声と体力が持つだろうかと心配になった。

ノンアルコールビ−ルで乾杯、右から2人目が筆者の福島さん

でも私のためにみんな一生懸命やって下さる姿を見て頑張りぬこうと思った。二日目、スタジオの前で色づき始めた林と青い空を見ながらラストソングを歌っていると涙があふれた。自然は私の心を純粋にしてくれた。すぐ録音して一回でOKが出た。木々さんありがと!“ひとつ”は「最後の所だけ一人合唱したらどうかと思うんですが」と晴美さん!(それは私も承知してました)「全部やってしまえば!」と黒田さん!(およよっ!)すぐ「そうしましょっ!」と晴美さん!細かくて見にくい合唱譜をめくらず見えるように全部貼り付け、夕方になると曇るコンタクトをママレモンで洗い直し、殆ど初見でしかも息の長い全パートを歌い終えた時は倒れそうだった。こうして7曲録音し,最終日お昼から始まったトラックダウンは全員徹夜で翌朝4時15分に終わった。これでいつ死んでもいいと思った。ノンアルコールビールで乾杯しまだ暗い河口湖を車で後にした。この6日間は私の一生の大切な感謝の思い出!出来たCDを聞くと、晴美さんの美しいピアノとDuoで共演出来た事、改めて“感謝!”皆様に聞いて頂くのは、来春大好きな桜が咲いた時…。



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