ポーランドでのレコーディング紀行B

 2曲目は“父の手”だ。昨年、弟が、家の大掃除をしていた時、古いモノクロの写真を見つけて私に見せた。そこには、やわらかい微笑みをたたえた若い日の父と、父に手をつながれながら、黙々と歩く3歳の頃の私の姿があった。その写真を見た時、私は胸がいっぱいになった。幼い頃から、どんなに愛を込めて育てられてきたか、すべてがその写真の中に現れていた。私は、その日から、その写真をピアノの上に飾った。写真の複製も作り、オフィスのピアノの上にも飾った。そして“父の手"の曲が生まれた。

 作っている最中に私は何度涙をぬぐったことか。歌ってみても途中で胸がつまって歌えなくなる。シンプルな音の中に、私のあふれる感謝の思いを込めた。出来あがってから、しばらく私はその曲を伏せておいた。

 しかし、ある時から、2000年の父の日に発表したいという想いが強くなり、レッスンに来る生徒さん何人かに譜面を渡した。ところが、歌い始めてしばらくすると、皆、涙で声がつまって歌えなくなってしまう。そんな事もあり、私はまたしばらくその曲を寝かせておいた。しかし、2月29日、真理ちゃんがレッスンに来た時、「“父の手”がずっと頭の中になっている。」と言うのだ。別に歌っているわけでもないのに、不思議に思った。後から部屋に入ってきた夫に、その話をすると、「ちょっと、真理ちゃん。“父の手”歌ってごらん。」と言った。ちょうどそこに、佐古さんが入って来た。そのような状況の中、“父の手”を真理ちゃんが歌った。歌い終わると、夫は、「これ、オケ(オーケストラ)にしたら?」と言い出した。「えー!!」私は仰天の声を出した。2月一杯に全スコアを書き上げ、編成表をワルシャワに出さなければならなかったからだ。それなのに、それに拍車をかけるように、佐古さんが、「うん、それはいいかもしれない。」と言う。

 というわけで、二人の口車に乗せられて、3月に入って私はもう2曲を新たに書き上げなくてはならない事になった。おまけに、3月22日が音楽之友社の合唱編曲の締め切りである。とかく忙しい時というのは、まるで試されているのか、鍛えられているのかと思うくらい重なるものである。やるしかない。“父の手"は2曲分の長さを要するので、スコアを書くことも編曲も他の曲よりもエネルギーがいる。私は、数日オフィスにこもったまま、1歩も外に出ずに五線紙に向った。幸せな時間を許されて与えられている事のありがたさをじみじみと感じた。そして、父がこの世に存在している事を心底ありがたく思い、なんとか父の生きている間に、この曲を父に贈りたいと思った。

(コンサート・マスター エヴァ)

 コンサート・マスターのエヴァが、父と私の写真をオーケストラのメンバーに見せながら、曲の内容を説明してくれた。写真の女の子を指差し、エヴァが「コンポジートラ…」と言う。楽団員がいっせいに、バルコニー席の私を見上げた。私は微笑みながら、会釈をした。テープが回る。静かに指揮棒が振り下ろされた。弦のイントロが、ワルシャワフィルハーモニアのホールに響き出した瞬間、私は言いようのない感動で、胸がはちきれそうになった。テンポの事、ハープの音、注文したい事は山ほどあった。しかし、彼らの演奏、真理ちゃんの歌はあたたかかった・・。最後まで通して演奏を聴くには、あまりにも胸が詰まりすぎて、私は何度も涙をぬぐった。

 曲が終わると、楽団から拍手がおきた。彼らの心が伝わってきた。ただ最初の部分と終わりの部分のハープと歌だけの所が、どうしても失速してしまい、何回録ってみても、本当に気に入るテイクはなかった。「思いきって、あの部分をピアノにした方がいいのではないか」という思いが浮かび、なかなか、その日は寝付けなかった。
<つづく>

 コンサート・マスターのエヴァが、父と私の写真をオーケストラのメンバーに見せながら、曲の内容を説明してくれた。写真の女の子を指差し、エヴァが「コンポジートラ…」と言う。楽団員がいっせいに、バルコニー席の私を見上げた。私は微笑みながら、会釈をした。テープが回る。静かに指揮棒が振り下ろされた。弦のイントロが、ワルシャワフィルハーモニアのホールに響き出した瞬間、私は言いようのない感動で、胸がはちきれそうになった。テンポの事、ハープの音、注文したい事は山ほどあった。しかし、彼らの演奏、真理ちゃんの歌はあたたかかった・・。最後まで通して演奏を聴くには、あまりにも胸が詰まりすぎて、私は何度も涙をぬぐった。
 曲が終わると、楽団から拍手がおきた。彼らの心が伝わってきた。ただ最初の部分と終わりの部分のハープと歌だけの所が、どうしても失速してしまい、何回録ってみても、本当に気に入るテイクはなかった。「思いきって、あの部分をピアノにした方がいいのではないか」という思いが浮かび、なかなか、その日は寝付けなかった。
<つづく>

 晴美さんと一緒にレコーディングに参加された目黒真理さんからも、その様子が届いています。

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 3月31日より4月6日まで、晴美先生と共にワルシャワへレコーディングに行かせて頂きました。
 空港には、佐古さんもお見送りにいらして下さり、佐古さんをはじめとする高橋晴美の世界を愛して応援して下さる方々の支えをとても感じました。
 ポーランドでは、指揮者の天野さんがポーランド語が「???」な私達を毎日ホテルまで送り迎えして下さり、本当に有り難く思いました。
 録音前2日間はレッスン合わせをしました。特に晴美先生のご主人の元生徒さん(ピアニストです)のワルシャワ郊外にあるお宅のピアノ部屋をお借りして、練習した時は、晴美先生と、晴美先生の曲を心から愛していらっしゃる天野さんと、3人の心がひとつになった、私にとって本当に幸福な時間でした。
 ワルシャワ・フィル練習場での練習も終わって、ついに録音の3日間が始まりました。「ジェーン・ドヴリー!(こんにちは)」とワルシャワ・フィルの皆さんに笑顔で挨拶して録音はスタートしました。
 オーケストラの真ん中で歌うのは、本当に気持ち良くてなんとも言えない幸福の時でした。夢心地とはこういう心境なのでしょう。でもそれは、晴美先生の優しくて、あたたかくて、全てのものを包み込んでしまうような、愛に溢れた心そのものの曲達だからに他ならないでしょう。
 録音を終えてみると、言葉の壁を破って音楽を心でわかり合えると言う事は、なんて幸せな事だろう、と改めて実感した夢のような6日間でした。
 ポーランド語をペラペラと話せるまるでお父さんのような天野さんや、ワルシャワ・フィルのオーケストラの皆さん、テクニカルプロデューサーのA・サーシンをはじめとするフィルのスタッフの皆さん、ご主人の裕先生、そして晴美先生・・…みんなあったかくて溢れる感性と情熱を持って、音楽を心から愛していらっしゃる。
この方々に出会えたことは、私にとって一生の宝物であり、人間の温かさをひしひしと感じさせられました。
 そして晴美先生と出会い、高橋晴美の世界を歌わせて頂けるようになったこと、これが私の一番の宝物です。晴美先生や裕先生との珍道中は本当に楽しくて、まるで二人は姉妹のようでした。そして録音後の半日ワルシャワ観光もとても良い思い出になりました。
 高橋晴美の音楽が、これからも益々色々な国の色々な人達の心に届き、生きていることの喜びを発見し感じて頂けるように、微力ながら今後もお手伝いさせて頂けたら、と願っております。晴美先生やスタッフの皆さん、そして応援して下さっている皆さんと共に。
目黒真理


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