高橋晴美の世界   待望のCDついに完成
ワルシャワフィルハーモニー&目黒まり

 美しい五月、私の大好きな季節が訪れました。 皆様お元気でいらっしゃいますか。ポーランドでのレコーディングからもう1年あまりが過ぎました。たくさんの方から「あのCDはいつでるのですか?」と問い合わせをいただきながら、本当に長い間お待たせしてしまい申し訳ございませんでした。やっと念願かなって6月17日(日)の父の日、ネットワーク2周年記念パーティーには、皆様にお渡しできそうです



 4月27日ぬけるような青空の下を、今日−虹を渡る日−のマスタリングに一口坂スタジオまで行って参りました。−必ず今日は虹を渡れる−そんな信念を持って。
  納得のゆくまでベストを尽くす事は、本当に根気のいることだとレコーディングの度に痛感させられます。だからこそCD1枚が出来あがった時の喜びは大きいのでしょう。このCDに封じ込めた私の感謝と祈りが、このCDを手にして下さった方の心にどうか届きますように……。
会員の皆様にはCDの発売より一足先に、曲目のご紹介をさせていただきます。

今日−虹を渡る日−

 この曲がCDになるまでの時間は、私にとって途方もなく長い時間だった。1998年"My Eternal Love"のCDに入るはずであったこの曲は、あの時レコーディングした16曲中、一番多くの生楽器を使い、最も長い時間をかけたにもかかわらず、トラックダウンする直前になっても納得のいかなかった私は、この曲をCDに入れることを断念した。
  だが皮肉にもアルバムが出来上がって家に届けられた時、そのCDを手にした瞬間脳裏に流れてきたのは−今日の日を待っていた−という"今日−虹を渡る日−"のワンフレーズだった。果たせなかった夢はその時から、いつかこの曲をフルオーケストラで演奏してみたいという大きな夢へと変わっていった。
  <ひとつに捧ぐ>と副題のついたこの曲は、1995年に"ひとつ"を世に出してからのいろいろなエピソードが引き金になって出来た曲である。"ひとつ"のCDを聴いた方から毎日のように寄せられる喜びの電話・FAX・手紙。中でも、言語を全く失ってしまった一人の老人の枕元で"ひとつ"を毎日歌い続けていたら、ある日突然その老人がいっしょに"ひとつ"を歌い出したという、奇跡と感動のFAXは私にとって衝撃的なものだった。
  あたたかい感動が私を包んだ、一人一人の奥底にたたえている"愛"に触れた時嬉しくて胸がつまった。そしてこの時、私ははっきりと確信したのだ。みんながひとつになる日が必ずおとずれる事を。こうして生れたのが"今日−虹を渡る日−"である。"ひとつ"のメッセージを受けとめて下さった方々への私からの感動感謝の歌である。

父の手

  今振りかえってみても"最後の8分間の奇跡"のように思えてならない。レコーディング初日のハープがどうしても納得のいかなかった私は、レコーディング3日目最終日の最後に、ピアノバージョンのテイクを録る事に懸けた。"ひとつ"を録り終わり、"祝福のうた"を録り終わり、"父の手"にかけられる時間は残り15分だった。
 祝福のうたの演奏が終わると同時に、ミキシングルームから階段を駆け下りステージを横切ってハーピストの所まで行く。その場で書きかえた譜面を渡し、弾く所と弾かない所の説明をしてピアノの椅子に座った。モノクロの父の写真をピアノの上においてオーケストラと共に演奏する"父の手"。残り時間は1テイク分しかなかった。
  指揮者とオーケストラと歌とピアノ、そしてエンジニアとアシスタントエンジニア。全員がこの一時に心がひとつとなった。まさに一生に一度の1テイクだった。最後の1音を弾き終わり、しばしの静寂のあと、エンジニアの"ジンクィーェン(ありがとう)"がホールに響き3日間のレコーディングのすべてが終わった。ツーミックスで録音しているので修正は出来ない。本来ならCDには入れないのかもしれない。しか し、私はあえてこのテイクを残したいと思った。今はもう寝たきりの父に、感謝を込め全身全霊を傾けて異国の地で弾いたテイク、まだ23歳のまりちゃんが心を込めて歌ってくれたたった1度きりのテイク。今も聴くたびに楽団員達の心がしみてきて胸が熱くなる。

ひとつ

 1995年4月20日AM3:00過ぎ、突然かきたてられるような気持ちになって、詩と曲が同時に出てきて、1時間足らずでこの曲を書き上げた。阪神大震災のあった年,そのチャリティーコンサートの準備をしている最中の事だった。歌手、ミュージシャンが家に集まって夜中までリハーサルを行った後、一人部屋に残った私は言いようのない感謝の気持ちでいっぱいになった。
  その日、ただ"愛"という行為のもとに、人の心がひとつになっていた。そこには国境も上下も隔たりも何もなかった。
  一気に書き上げた後、陽が昇る東の空を眺めながら、とめどなく溢れてくる涙をおさえる事が出来なかった。それまでに乗り越えてきた苦しみや悲しみのすべてが、この曲を書かせるために、天が与えてくれたハードルの1つ1つであった事がわかり、ただただ感謝の思いで涙がこぼれた。
  初演は'95年6月16日、阪神大震災チャリティーコンサートで当時北朝鮮籍の李京順さんに歌っていただいた。その反響の大きさに――"ひとつ"は急いでCD化しなければ――という強い使命感のようなものを感じた私は、かねてから計画をしていたCDアルバムの制作より先に、"ひとつ"をシングルCDにする事を思い立った。 1996年ミネハハさんに歌っていただき、自分の持てる全精力をそそいで"ひとつ"のCDを世に出した。一枚のCDはそのCDを手にして下さった方の"愛"によってさらにその方の愛する人へとプレゼントされてゆき、少しずつだが着実に愛の輪が広がっていった。今では日本の各地で合唱で歌われたり、手話の講座でとりあげられたり、また、海外でも演奏されるようになってきた。
  今回の"ひとつ"のレコーディングは、1999年8月6日広島の原爆記念日に中米グァテマラにおいて、グァテマラ国立管弦楽団と"ひとつ"のオーケストラ版の初演を行ったことがきっかけとなった。96年度版の"ひとつ"にさらに木管群、金管群、そしてピアノが加わり、音の厚み広がりが増している。オーケストラの中で弾く"ひとつ"は、自分の祈りが何倍にも何十倍にもふくれあがって、まるで地球を抱擁している気持ちにさえなった。
 
国と国がひとつになる事、それは決して大上段に構える事ではなく、身近に存在してくれているたった一人の人を愛する事、愛しぬく事からはじまるのだと思っている。いつの日かこの美しい地球が愛に満ち溢れ、国境も争いもない全人類がひとつになる時代が訪れる事を願ってやまない。

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高橋晴美

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