特別企画  ネットワーク5周年記念対談(その2)


 「高橋晴美の音楽ネットワークはこの6月13日で6年目に入りました。高橋晴美さんと、ネットワーク代表の佐古則興氏にこの5年間を振り返っていただきました。
 


前号に続いて高橋晴美さんと、ネットワーク代表の佐古則興氏にこの5年間を振り返っていただきました。

コーラスハルミオンのこと
佐古
 ところで、この5年間を振り返って、どうしても触れておかなければならないのが晴美さんの曲だけを歌うコーラスハルミオンのことです。最初晴美さんはこの合唱団を作るのにあまり積極的ではなかったですね。
晴美  はい、もともと作品が生れてくる時はソロの歌として生れてきていますから、その作品をコーラスで歌って果たして伝えたいことが伝わるかどうか疑問でした。 例えば「母に贈るうた」にしてもそうですが、前半の部分は自分の人生を振り返る回顧の部分ですから、語るように歌うわけで、決して外に向かって歌い上げて は欲しくないのです。歌い上げてしまったらひたひたと伝わってくるものも伝わってこなくなる。そういう事ひとつとっても、大合唱でそんなデリケートな表現 が出来るだろうか…と思ったわけです。
佐古  なるほど。晴美さんの歌を聴いてしまうとその曲に魅せられて歌いたい衝動に駆られます。何しろこの私がそうでしたから(笑い)。そして簡単に歌えそうな気 がする。しかし、いざ歌ってみると非常に難しい。それをコーラスでやるのは至難の技ですものね。それがどういうきっかけで合唱団発足ということになったの ですか。
晴美 実は以前から「ひとつ」を合唱で歌いたいという声が非常に多く、すでに混声合唱と女声合唱の譜面は出来ていていろいろな合唱団で歌われていました。
佐古 そうでしたね。晴美さんの曲の中でも「ひとつ」という曲は特別な力を持った曲でした。
晴美  そういう中で「ひとつ」を歌う合唱団を是非作って欲しいという声があちこちで聞こえるようになってきたのです。しかし、それでも合唱団を作るにはまだ機が 熟していませんでした。ところがちょうどその頃「星降る夜に」という曲が出来たのですが、自分で作ったカラオケをバックに自分で歌った出来立てのほやほや の「星降る夜に」を佐古さんにお聴かせしたところ、「うん、これは是非コーラスに編曲して欲しい」とおっしゃったわけです。
佐古  あの時の感動は今でもはっきり覚えています。確かあの時はピアノ伴奏のカラオケではなく、シンセのストリングスでオーケストレーションされたカラオケだっ たので、コーラスのイメージがわきやすかったことも確かです。それに何より歌い手が良かった。温かくて、優しくて・・・。
晴美 やめてください(笑い)。すっかりその気にさせられまして早速混声合唱の譜面を書き上げたのです。当時佐古さんは高校時代の合唱仲間と「ほらたけ」という合唱団で歌っていらしたのですが、その「ほらたけ」の方々がこの「星降る夜に」をはじめて歌ってくださいましたね。
佐古  何しろ晴美さんはそうと決まればやることは早い。すぐに混声4部にアレンジしてくれました。そして「ほらたけ」の練習日に楽譜を持って行き指揮者の羽染先 生に指導を受け歌いました。思ったとおりでした。その時確信しましたね。晴美さんは合唱曲を書いても素晴らしい。これからもどんどん書いてもらおう と・・・。
晴美 まったく上手 なんですよね、人をその気にさせるのが。すっかりおだてられて1999年のバードランドで行なったクリスマスパーティーには有志の方が集まって皆で「星降 る夜に」を混声合唱で歌いました。実際にはそれがきっかけとなり、その翌年の1月から高橋晴美のオリジナルを歌う合唱団が発足したわけです。
佐古  発足したばかりの「高橋晴美の音楽ネットワーク」に団員募集を呼びかけたところすぐに20人程が集まりました。第1回目の練習日には小野瀬照彦先生と清水 正彦先生が指導に駆けつけてくれました。これからが晴美さんと先生方のご苦労が始まるわけです。何しろ歌えないのですから。リズムに乗れない。皆の熱い希 望で「海よりも空よりも」を初日からやりました。あの難曲を・・・。清水先生にはお気の毒でした。あの熱血指導も効果なく、本当に前途多難を思わせまし た。
晴美 いやー今思い出して も冷や汗が出ます。あれ以来二度と清水先生はハルミオンの指導にはいらっしゃいませんでした。何しろ超多忙な方ですから、その日も午前中はしっかりどこか の合唱団を指導なさって、午後は新潟まで教えに行かれるその合間の時間にハルミオンの指導に駆けつけてくださったわけですからね。さぞかしお疲れになった 事と思います。しかも、「海よりも空よりも」という未だにこの曲だけはOKを出していないという難解曲ですからね。
佐古 なかなか歌えない原因はどういうところにあるのですか。
晴美  少し専門的な話になりますが、その原因は三連符にあるのです。これが同じ三連でも「星降る夜に」の三連より遥かに難しいのです。特に1番はプロの方がソロ で歌うのでも難しいです。伴奏が白玉(二分音符)で動いている中で歌は三連で歌うわけですから、白玉で前奏が始まった時から歌う側は三連を感じていなくて は、まず「海よりも」の「うみ」が入れないわけです。おまけに三連でも一拍目は休符なのです。はじめての方はまずそこで引っかかってしまうのです。その休 符の後の三連というのが何箇所もあり、しかも1番の伴奏は三連を刻んでいないというところがネックなのです。伴奏を刻めばずっと楽なのですが2番に入った 時の新鮮さがなくなります。
佐古  あの曲は超人気曲で多くの合唱団で歌われていますが、完璧に歌った合唱団は本当に少ない。「母に贈るうた」もそうですが人生の年輪を重ねた人が、特に歌い たいとおっしゃる。自分の生きてきた道のりを振り返えるのでしょう。ところがその年代の人が歌えない。実は私もその例外ではないのですが・・・。そのよう な状態で「高橋晴美のオリジナル合唱団」は船出したわけです。団員は月1回の練習に嬉々として集まってきました。しかし、残念ながら、月1回では次回の練 習の時には大方忘れています。あの当時の小野瀬先生の粘り強く優しい指導が無ければ今のハルミオンは無かったのではないでしょうか。
晴美 本当にそうですね。小野瀬先生にはどれほどお世話になったか知れません。ハルミオンへの熱心なご指導もそうですが、作品の普及に対しても惜しみ無い情熱を注いでご尽力くださいました。
佐古
  そうした中で、合唱団員の晴美さんの曲を歌いたい、皆に聞いて欲しいという想いがその後の発表会やコンサートの成功をもたらしたのだと思います。アスピア での1周年記念パーティ、けやきホールでのCD完成記念コンサート、そして今回の芸術劇場でのコンサートに繋がる事になった2001年11月セシオン杉並 の「オーケストラと合唱の夕べ」・・・。どれをとってもコンサート直前までは、不安が付きまっとっていました。しかし、いずれも本番は見事にやり遂げてい ました。晴美さんにとってはそうではないでしょうが・・・。
晴美
 コンサートをするということ自体、大変なエネルギーを要するのは当然の事なのですが、チケット代を出していらしてくださるお客様の事を考えると、ハルミオンの出演はいろいろと悩みがつき物でした。

「パパの広場」の人たちとの出会い

佐古 そんな中で、私の当時一番の悩みは男声パートが少ないという事でした。
 それがある時を境に男声が大勢入団してきました。それが「パパ広」の人達だったわけです。「パパ広」との出会いはどのようなものだったのですか。
晴美  それはまさに「神様からのプレゼント」でした。そのプレゼントを運んできてくださったのが、中村典子さんという私の雙葉学園時代の同級生だったのです。あ る時彼女から電話がかかってきましてね、私に「お願いがあるのだけれど、ある所でピアノを弾いてくれない?」というのです。「ある所ってどこ?」と聞いて も「いい所よ」と言うだけで教えてくれないのです。他でもない中村典子さんからのお話なので「私でお役に立つのであればいいわよ」と気軽にお返事したので すが、数日たって送られてきた書類を見て目が点になりました。なんと雙葉学園の修道院で「パパの広場」(現在お嬢さんを雙葉学園に通わせていらっしゃるお 父様方の集まり)を対象に講演コンサートお願いします、という内容のものでした。しかも今まで講演をなさった方々のお歴々のお名前を見て余計に固まってし まいました。その時から私の未知のものに対する新たな一歩が始まりました。今振り返ってみてもあまりにも素晴らしい天の計らいに胸が一杯になります。
佐古 それまで人の前で話すのは苦手だと言って極力避けてきましたよね。それがどうして「よし、やってみようと思うになったのですか。しかも「神様からのプレゼント」と思うほどに・・・。
晴美  それは、母校雙葉学園に少しでも恩返しをさせていただきたい、と思ったからなのです。実は卒業してから年月が経つほどに、母校からいただいた恩恵の深さ素 晴らしさを感じ、特にこの10年間は「いつか母校にご恩返しをさせていただきたい」と思い続けて来ました。私の作品の中に流れている“愛”は、もちろん両 親、恩師によって培われてきましたが、幼少の頃から受けた雙葉の教育、特にカトリックの教えの賜物ではないかと感じています。その母校の修道院に立たせて いただけるなんて、こんなに嬉しくありがたい事はありません。ご恩返しの機会をいただけたのですからあとは、自分に出来るベストを尽くすだけです。
佐古 本当にそうですね。そうと決まればまっしぐらに最善の努力をする。それが晴美さん。いつも感心しています。講演コンサートの構成を考えストーリーを書きそれに音楽を入れる。時間を計りながら何度も練り直しをしていた様子を思い出します。結果は大成功だったわけですね。
晴美 お陰様で、昨年1月修道院9階ホールで目黒まりさんに歌っていただき、無事講演コンサートを終える事ができました。
佐古  後にパパ広のメンバーからお聞きしたのですが、その日の打ち上げは大変盛り上がったそうです。少しリップサービスがあるかも知れませんが、パパ広の講演の 二次会でこれほど感動し盛り上がったことは無かったとおっしゃっていました。それが新講堂での講演コンサートへとつながっていったわけですね。
晴美  本当に嬉しかったです。社会の第一線で頑張っていらっしゃるお父様方にこれほど喜んでいただけるとは想像外でした。皆さん口々に「是非僕たちだけでなく、 家族にも聴かせたい」とおっしゃってくださり、その結果7月には雙葉学園中高新講堂で講演コンサートをさせていただく事となったのです。
佐古 それからですね。パパ広のメンバーとの交流が始まったのは。
晴美 新 講堂のステージを思い浮かべながら構成を考えていた時に、最後に歌う「ひとつ」「Cantare〜歌よ大地に響け〜」を合唱で演奏できないか…と思ったわ けです。そこで思いついたのが、パパ広の方々の合唱参加でした。お父様方が参加なさって共に雙葉学園から愛を発信できたら、これは素晴らしい事ではないか と思いました。
  詳しい事は夢飛行Vol.15 に掲載されておりますが、パパ広の団結力には頭が下がります。
佐古
 パパ広はいまやハルミオンの中核をなす存在です。特に練習後の団結力は他に類を見ません(笑い)。ところで、晴美さんにとってこの講演コンサートはどの様なものでしたか。
晴美  講演コンサートが無事終わり、何より嬉しかったのは校長様はじめ、シスター方の満面の笑顔でした。終了後にいただいたお言葉とあの微笑は生涯忘れません。 その時初めて、やっと少しご恩にお報いする事が出来た、と思いました。そして又嬉しい事に、翌月のハルミオンの練習に、コーラスに参加されたお父様方のほ とんどの方が正式に入団してくださったのです。その上雙葉時代の同級生まで。なんという幸せでしょう!それから、雙葉の同窓会ホールをお借りして毎月の練 習が始まったのです。母校の四谷に再び通える喜び、同級生のあたたかいまなざし、パパ広の方々の若さとやる気、そのエネルギーに支えられ5月15日に向 かって走れたのだと思います。まさに「神様からのプレゼント」でした。
佐古 5月15日を境にハルミオンは大きく変わったような気がします。学生や若い人達も増えてきました。10月からは所さんを団長とする新しい役員が選出され、これからは若い人たちの活躍に期待したいところです。
晴美 5月15日をみんなで乗り切った事によって連帯感が増し、コーラスハルミオンが次のステップに進んだ確かな手ごたえを感じています。
  横の繋がりを大切にしながら合唱団として活性化しつつあるのを感じますね。お忙しい大塚先生、小野瀬先生にご指導いただける事に決して甘える事なく、 一人一人がご自分の責任において音楽的により高いレベルを目指し、一月にたった一度の練習を大切にして頂きたいと思っています。
佐古  この5年間晴美さんには本当にご苦労様と言いたい。そして会員やファンの方々には心からお礼を申し上げたい。それが私の現在の心境です。そして10周年に 向かって、「晴美さんの世界が、今やっと幕が上がったところです。これからが本番です。皆さんどうかお楽しみに!!」と申し上げたい。新しい企画は概要が 固まり次第「夢飛行」でご紹介していきたいと思っています。
晴美  お礼を申し上げるのはこちらの方です。いつも思う事は、佐古さんをはじめとするお一人お一人との素晴らしい出会いが無ければ今の自分は無いという事です。 今日までの道のりを振り返る度、こみあげてくる感謝の思いに胸を詰まらせてしまいます。きっと何か役割があるからこそ、このような素晴らしい方々との出会 いをいただけるのだと思っています。いただいた一つ一つの事に対し、精一杯お応えしてゆきたいです。


(終わり)


 


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